東日本大震災 被災の記録 2011年3月11日~


 そのとき

 私は自宅と川を隔てた実験室の整理をしていた。外に出ようと戸口に立ったちょうどそのときカタカタ揺れ始め、普通の地震とは明らかに違う振幅の大きな揺れになってきた。※1 
 建物内部に戻るより外に居た方が安全だと判断し、隣の駐車場に逃げた。立って居られないほどではない。川を挟んだ自宅の方を見ていると電線が大きく波打ち、隣家の瓦が土埃と共に落ちはじめた。瓦の落下音、その他あらゆる建造物の軋む音が響き渡った。

3月20日撮影 あの時、この位置から家を眺めていた。
隣家のブルーシートは瓦の落下した跡
家の外観は何の変化も無く、大した事は無いと思い込んでしまった。最も心配した三本のサクラの老木は、倒れることもなく健在だった。

 駐車場に停めてあった車がばね仕掛けのおもちゃのように上下、左右に激しく動き回り、この車が飛んできたら終わりだと思った。通行中の車もほとんど停車し、同じように上下、左右に激しく揺れていた。
 自転車で通りかかり、様子を見ていたご婦人が、地面に手を付き座り込んでしまった。私は意地でも座るものかと二足で立ち続けた。揺れているとか振動しているというレベルではない。遊園地のスリリングな乗り物のように、体が加速度を受け移動している事をはっきり自覚できる。0.3秒周期で左へ10cm、右へ10cm動かすと同じような感覚になるのではと思う。
 長い時間だった。今までの地震ならば長くても20秒くらいで徐々に収まるものだが、一向に減衰せず少し弱まったと思えば、また振幅が増すような揺れが続いた。後で聞けば3分ほどの揺れだったらしい。その間、立ち続ける事だけに集中し、夢か現か判別できないような時間だった。
 翌日、激しい筋肉痛が足に出た。多少スキーの経験があったため、絶えず重心を移動させバランスが取れたのではないかとと思う。なんとか倒れずに済んだ事実から推量すれば、500Gal(500cm/s)程度の加速度なのだろうか。自転車のご婦人は、私が移動を始めてもしばらく動けなかった。このときは自分のことで精一杯、とても他人を思いやる余裕など無かった。 

※1 後で調べると携帯電話の緊急地震速報は鳴ったようだ。しかしそのときは全く気付かず。速報と地震がほぼ同時に襲来したのだろう。震源が近ければ緊急地震速報も間に合わない。

 ようやく静かになり自宅を見ると、ほとんど変化は無い。 2年前耐震補強をしたばかりで、何かが崩れたり、土煙が上がる様子も無い。一番心配していたサクラの老木も折れたり、傾いたりすることも無く、一安心。立っていられたのだから震度5程度、規模からして宮城県沖地震に間違いないだろう。震度6強、M9.0とは思いもしなかった。

 後から思うと動転していたのだと思う。真っ先に家に駆けつけ、家族の安否を確かめるべきなのに、何を思ったか実験室の片付けなど始めてしまった。室内を見回すと風洞の上に設置したモニター用ブラウン管TVが落ち、煙発生器に改造した長辺60cm程のガラス製水槽の上に落下し、水槽は粉々になっている。

 そんなことをしていると妻の声が聞こえた。
「お父さん、大丈夫? 家のなか、めちゃくちゃだけどこっちは大丈夫。ここ(擁壁の上)沈んでいるから気をつけて来てね」 後で聞けばさっぱり戻って来ないので、案じて見に来たとのこと。
 予想以上に事態は深刻らしい。急ぎ家に戻ろうとすると、雍壁に沿った階段がうねり段差が不規則になって歩き辛い。雍壁の上まで来て驚いた。揚壁と同じ高さであった道が30cmも沈下してしまっている。家から2mほどのところに数箇所地割れができ、地割れ部分を中心にして庭全体が回転したように沈下したようだ。庭の傾斜は増したのだろう。

右側雍壁上部と同じ高さだった左芝生が、約30cm沈んだ。
揚壁が倒れなかったのは不幸中の幸い。これが倒れていたら家の庭はなくなっていた。
地震前、左の石が転げ落ちるのを心配したが、無事。
整然としていた階段は、不規則になってしまい歩き辛い。
上部が約30cm沈み、下部はそのままのため傾斜が緩くなった。
リビングダイニングの惨状 机、奥の棚は左へ1m動いた。固定していたTVは落下を免れた。
 
 家に着いてみれば、なんとまあ、靴を履かねば入れない。食器が落ちガラスが飛び散り、棚の上のものはほとんど落ちた。一部の部屋へは戸が開かずに入れない。当然停電、ガスは遮断。余震で度々揺れ、家の中にいるのも恐怖で外に出ていると、外出していた倅も帰ってきて全員が揃い一安心。
 寒くなって来るし、情報も欲しいので犬も含めた全員車に乗り込んだ。車載ワンセグTVを点けると大津波警報を繰り返し伝えている。車がグラグラ揺れるような余震もあったが、考えてみるとこんなことをしていられない。暗くなる前に腹ごしらえをし、寝るところも考えねばならない。
 
    3月11日夜
 ガス漏れの可能性があるので、火は使うなとTVで言っている。確かに外はガス臭い。引火濃度には到底達しないのは分かっていても、過敏になっている家人、ご近所の手前、蝋燭の使用は止めた。幸いLEDランプが三つほどあり、二晩常時点灯にしたが、昔のフィラメントランプなら2時間も持たなかったろう。
 TVは車のポータブルカーナビを外しワンセグで見られた。しかしバッテリーが使えるのはせいぜい3時間。最近はAMラジオなんて聞くことも無く、バッテリーで動く物は娘が持っていたおもちゃのようなものだけ。それでも十分役に立つ。
 冷や飯で食事を済ませるとすることが無い。電気もガスも遮断され寒くて仕方がない。冷えたコタツに家族全員足を突っ込み、卍型になって休む。寒さと度々襲ってくる余震でほとんど眠れない。
 一夜明けて 耐乏生活が始まった 3月12日(2日目)
 払暁の訪れを助かったと言う思いで迎えた。外に点検に出ると暁の東の空に立ち上る黒煙、昨夜は空を照らしていた火事だ。日常なら大事件でも今度のようなときはニュースにもならない。コンビナートの火災と知ったのは一日後。
 水は出る。しかし停電の中、なぜ水が出るのか不思議だった。ポンプで圧送しているのではなく、高所にたまっている水が重力で流れているだけではないか。そうならばいつかは無くなる。急いで溜めねばならない。
 風呂に残った多少暖かい水を急いで捨て、バスタブに半分ほど水道水を溜めた。この判断が正に正解。間もなく断水となり、再び水が出始める3日後まで飲料水には困らなかった。
 やっと親戚と電話が通じた。芯上下式石油ストーブを貸してくれると言うので、車で取りに行く。停電のためほとんどの信号が消えており、車同士は譲り合って何とか進むが、歩行者は道路の横断に難儀していた。
 石油ストーブなら煮炊きもでき、熱いお湯があれば少しはまともな物が食べられる。カップ麺がこれほど美味しかったとは。思い出したように知人から数本電話が入る。停電中のため最低の電話機能しか使えない。お見舞いをいただいても暖房の無い部屋では寒くて気もそぞろ。
 ストーブが手に入ったため布団を敷き家族4人、4本川で眠った。疲れで余震があってもどうでも良くなっていた。