雑談室 2005年8月~9月


 私の勲章 - 卒業前後の事 (2005.9.26) 
 実は小生、大学前後に大迂回ルートを経ている。何しろ一浪、一退、一留と三年も回り道をしていたのだから大したものだ。隠していたわけではないが、自慢できる事でもないので今までほとんど話さなかった。今になってみると最初の二年は別にして、最後の一年が今日の私の出発点であり、それが無かったら平凡なサラリーマンで終わっていたのではないかと思え、人生の機微を感じないではいられず、この経験が見えない勲章のような気がして来た。

 私は英語が大嫌いで、二年次の英語の単位がが四年まで未取得であった。四年になって江守一郎先生の下で卒業研究が始まると、学問の面白さに初めて目覚め、これに没頭してしまった。英語の単位を取らないと卒業できない事は承知していたが、何とかしてくれるだろうと高をくくっていてあっさり落とされた。後に聞いた話では、教授会で大揉めになったらしい。
 ようやく事態の深刻さに気付き青くなった。オイルショック後の就職難の時代、やっともらった内定をふいにするのも惜しいし、父親もリタイヤで学費もいつまでも続くものではない。江守先生に泣き付いたところ、「雇ってやるから俺のところで働け(私設助手)」と今にして思えば実に魅力的な誘いをいただいた。しかし、先々の事を考えメーカーに就職したいと希望を伝えたところ、何と、あろう事か内定先の会社まで談判に出向いてくださった。まったくこれには参った。恩師の温情に涙が出るほど感激した。卒業後20年間、私が必死になって江守先生の後を追いかけ、何とか先生の役に立ちたいと思ったのは、こんな事情があったからだ。恩返しをしようとしていても、結局先生には迷惑ばかりかけていたのかも知れない。
 就職先も度量が大きかった。卒業まで臨時雇いで週一日大学に通うと言う破格の待遇で、ラインから外れた試作品の手作りや実験の仕事だったが、夢中になって取り組んだ。大学では午前中授業に出席し、午後は研究室で新4年生相手に先輩面をしてふんぞり返っていた。一年先輩で院生の斉藤孝三氏(現ケンタッキー大学機械科主席教授)とは、ファーストネームが同じ事もあり、意気投合して時間が許す限り行動を共にした。ありがたい事にこの関係は今日まで続いている。後輩の研究指導を通じ、江守先生と斉藤先輩からはより多くの知識を授けられた。この一年が無かったら、私が模型実験で飯を食う事は不可能だったと思う。

 後が無いので一番前の席で英語の授業に出たところ、私としては割と良い成績で卒業できた。しかし、江守先生に作った借りは大きく、10年後にFirst International Symposium on Scale Modelingでの講演を厳命され、20分間世界の学者相手に英語で講演するという恐ろしい体験までした。英語アレルギーは未だにあるが、一人で海外に行くくらいなら何とかなる程度にはなった。
 卒業と同時に就職先では正社員となり、ここでも思いがけない事が起きた。当初私の配属予定は営業技術であり、赴任先も福岡と決まっていたが、一年間の臨時雇いの実績を評価してもらえ、地方勤務がキャンセルになってそのまま工場に残してもらえた。その上臨時雇いの期間も在籍期間にカウントしてもらえ、一年前に正社員になった人たちを追い越し、その後数年間の昇格は一番早かったと記憶している。本当にありがたかった。結局家庭の事情で退職する事になってしまったが、その最初の勤務先、サンデン株式会社(当時は三共電器株)と目をかけてくださった上司の方々や先輩には今でも深く感謝している。特に当時の上司で後に技術本部長になられた大和田英明氏は、私にエンジニアリングの礎を叩き込んでくださった大恩人である。まともに卒業していたら、この出逢いも無かっただろう。

 人生万事塞翁が馬と言う故事をこれ程痛感した時期は無い。こんな経験があればこそ、どんな時でも私は悲観的にならず案外暢気でいられるのかも知れない。夢中になって取り組んでいれば道は確かに開けると思う。


 卒業研究のテーマ「沈殿槽における沈殿現象の模型実験」は、その後の研究と合わせ、"Scaling Laws on Sedimentation of a Turbulent FlowSystem,"  International Symposium on Scale Modeling  July 18-22,1988 Tokyo  日本機械学会 として英文で発表した。また、斉藤先生の尽力により「模型実験の理論と応用 第三版」技報堂出版刊に邦文で収め、故江守先生の霊前に捧げることができた。私は現在JAXAより「月着陸船に関する模型実験の検討」と言うテーマで仕事を請け負っている。はからずも江守先生が模型実験に関わる事になった研究で、私が同じテーマの仕事を得られたのにも何かの因縁を感じる。生きていたらどんなに喜ばれるだろうかと感無量である。

 ものすごく優秀か、問題のあった学生は先生方の記憶にしっかり残っているようで、卒業後学校に行くと何年経っていても多くの先生に思い出してもらえる。これも怪我の功名。現在の学生さんたちに、ダメ学生がその後まともにやっている例として紹介された事もあり、苦笑するしかない。多少は見栄もあるので記しておくが、私の成績は平均すると決して悪くは無い。得意不得意の差が著しく、図学の試験では200点満点のところ別解も評価され220点取っている。

 卒業研究の共同研究者だった伊藤宏君は、人徳(成績ではない)が私より勝っていたようで難なく・卒業した。抜け駆けになってしまったのをいくらかは気にしている素振りも見えたが、気にする事はない。私はこんな得がたい経験をして、スキルアップしたのだから。
 最初に記した一退は、初めに入った大学があまり面白くなく、中退した事をさす。退学処分を食らったのではない。結果的には良かったのかも知れないが、中途で止めるという事は自分が未熟であった証だったと今は思える。「一流の人間は何をやらせても一流だ」と言うのは、前述大和田英明氏の言葉である。

 素人庭作り - ハイテク化 (2005.8.21) 
 生垣を刈り込む時、うまいプロがやると定規で線を引いたようになり、素人としては上手い?私でも差は歴然である。
テキストでは糸を張ってそれをトレースしろと書かれている。しかし、これは結構面倒だ。
 一流のエンジニア(^<^)である私が、こんな昔ながらの面倒な方法でやっていられるか、とハイテク工法を考えてみた。直線を出すならレーザー。
レーザーポインタの前にシリンドリカルレンズ(円筒を縦に切ったような形状)を置くとレーザー光は扇のように広がり、平面ができる。これを植木の切りたい所に当て、その面をトレースして切り取れば正確な平面が出現するではないか!
 しかし、安全と価格を考えると高出力のレーザーは使えない。人体に影響の無いレーザーを使うと夜しか見えない。
せっかく考えたのだからと暗くなって蚊に刺されながら、レーザー光を目安に刈り込んでみた。糸を張っても直線しか出ないのに、扇型に広がったレーザー光は平面になり、どちらの方向から見ても水平に仕上がって、我ながらすばらしい出来栄えだ。
駆り残した部分は赤く光って一目瞭然である。暗闇の中に赤色発光ダイオードのように光り、綺麗だ。
 使える方法であることは実証できたので、今回だけで止めようと思う。どう考えたって暗くなってから植木の刈り込みをしているのはばかばかしい。 

 天からの贈り物 (2005.8.21)
 自分で庭仕事を始めてから、庭のあちこちから実生が成長している事に気付いた。毎年来ていた植木屋さんは全部刈り取っていたらしい。これならわざわざ苗木を買って来なくても、一部は自給できる。
 ところが、よく調べてみると家に無い木が発芽している。近くに親木が見当たらないのに、コナラが一本発芽していた。松の実生は家にある黒松だとばかり思っていたら、触ってみて家に無い赤松だとわかった。いったいどこから迷い込んで来たのだろう。風で飛ばされたのか、鳥が運んだのか、どこかの子供がどんぐりを投げたのか? せっかく迷い込んで発芽したのだから、これら贈り物の成長を見守りたいと思う。。
 我が家の木の種から発芽したのは、椿が多い。現在5本程度成長している。しかし、残念な事に私はあまり椿が好きではない。他の花々に先駆けて真っ先に咲くのは良いとして、「ぼたっ、ぼたっ」と落ち、地面に朽ち果てた屍をさらすのがどうも好みに合わない。オペラ「椿姫」の悲劇が「あんこ椿は恋の花」より先に連想されてしまう。家内は好きなようで、どのくらい剪定するかでいつももめる。常緑樹で葉が厚いため、あまり成長されると庭が暗くなるのもマイナス要素。
 金木犀の下にもなにやら生えてきた。単純に金木犀の実生だと思い込んでいたが、日本には雄株しか到来していないので、種子は出来ないそうだ。何の木かわかるまで楽しみが増えた。
植えてないのに生えてきた木 左より 赤松、 コナラ、 ツバキ、 不明
9月28日追記
 その後、ヌルデとタラノキを発見した。ヌルデの幼木は、知らなければ間違いなく雑草として刈り取っている冴えない木で、こんなものを意識的に植える事はない。ヌルデを覚えておけば、ウルシが簡単に同定できるようになって便利だ。ヌルデは葉と葉の間の軸に翼があり、その他はウルシそっくり、同じウルシ科ウルシ属なので、紅葉は綺麗だろう。
 タラノキは駐車場のコンクリートの間から生えてきたもので、刈り取らざるを得ない。都市部のタラノキは春先になると誰かに新芽をごっそり持って行かれる。それでも成長し続けているからたいしたものだ。

 8・16宮城地震 (2005.8.17)
 8月16日11時46分頃、突如震度5強の地震に襲われた。仕事部屋で机に向かっていた私は普通ではない揺れに急いで部屋から飛び出した。何しろ机の脇の棚には天井まで物が積み上げられ、これらが落ちてきたら無事ではいられない。塗料、溶剤、油脂類、果ては酸、アルカリ類まであり、四散するとちょっと面倒な事になる。
 周期は短くないので直下型では無いと判断し、家がつぶれる心配はしなかった。37年周期の宮城県沖地震にしては予定より早いな、しかしこの感じは宮城沖だ、なんて事を考えていた。後で思ったが、このくらいの強い揺れになってしまうと行動すべき事、考える事が多く、怖いなんて思っていられない。かえって震度4くらいで何時までもゆらーりゆらーり揺れている方が怖い。
 一昨年の地震以来、家具はがっちり固定し、重いものはすべて下方に移したので空き箱が落ちてきたくらいで、特に壊れたものもない。さて、落ち着いて検証すると 「大した事、無かったなぁ」 と言う感じなのである。激しい振動でガスを遮断するマイコンメーターも作動していない。一昨年の5月、7月に当地を襲った4回の震度4の地震は、周期が短くがたがたと激しく揺れ、2度マイコンメーターが遮断した。今回振幅は大きいものの周期は長くより余裕があったような気がする。
 甚大な被害を出した1978年の宮城沖地震が震度5(当時は強、弱が無かった)で、今回が震度5強であるのに、今回は比較にならないほど軽微だった。体感で決めた震度と、計測器によって得られた震度は大きな差があるようだ。震度6弱を記録した川崎町(仙台市の南西約30km)では、ほとんど被害も無く、「何で震度6なの」と言っているらしい。最近全国で地震が多発し、あちこちで震度5を記録しているが、現在の震度5と言うのは大した事ではないようだ。
 仙台ではほぼ37年周期でM7.5前後の宮城県沖地震が来襲する。今回はその一部が滑っただけで、本体は未だ動いていないらしい。それでも想定震源域の一部が滑ったのだから、本体のエネルギが減少しているのは疑いない。今回程度が3、4回ですむなら、震度6が一気に来るよりも気が楽だ。
 宮城県は地震の巣で、周期性の宮城県沖地震の他にも中規模の地震が多い。しかし、何十年も来る来ると言われ続けて何時来るかわからない巨大地震よりも、規模が一回り小さく準備ができるだけ安心していられるようにも思う。
 天井が落下したスポパーク松森 (しかし、変な名前) は家から車で10分ほどの場所にあり、前日も行って見ようか、と言っていた所である。破壊された写真を見ると、あまりに華奢であきれる。ビルの天井裏を覗いた事がある人ならわかるだろうが、つり天井はパネルが通常落下しない程度の強度でしかない。重力には耐えられるだろうが、横に押すと簡単に曲がってしまいそうな構造である。同じ構造で、あの大面積の天井が横に動いたら耐えられない事くらい、センスのある技術者なら計算や実験するまでも無く想像できるだろうに。

 地震お見舞いくだされた多くの方、ありがとうございました。思いがけない方からもお見舞いいただき、ご厚情を感謝するばかりです。電話が通じないのでメールでと言う方もいらっしゃいましたが、地震後は電話も携帯も電話に依存しているインターネットも使えません。もし地震に遭遇し,とにかく真っ先に連絡を取りたい人がいる場合は、地震が収まるや否や電話するとほぼ繋がります。メディアから地震報道が流れた後ではもう遅いです。
 また、家具の固定、重量物の配置場所の見直しは是非実行なさる事をお勧めいたします。

 森を作りたい (2005.8.15)
 昔、私の家は川が流れる森の中にあった。県が管理する川であり、公図上では私有地との境界がある。しかし貧弱な護岸だったため勝手に流れを変えて、当敷地内を走り回っていた。本来川の部分の県有地をこちらで占有していたという見方もある。大木が生い茂り、街の中とは思えない環境で、自然が残っていたものの何ら経済活動の出来ない土地であった。
 25年前、県が河川改修を行う事になり、立派な擁壁が完成した。それと引き換えに200本余もあった木は、数本の桜を残してすべて伐採されてしまった。いくらか平らな土地が生まれたものの、未だに拙宅には利用価値の無い斜面(と言っても固定資産税はがっぽり取られる)が多く残っている。ここにあった木々を残す工事方法はあったはずなのに、お役所の杓子定規によって引かれた図面によって、それらはすべて抹殺され、今や葛が縦横無尽に暴れまわる荒れ地となっている。
 斜面でもこれだけの土地があるのに、何にも使えず、草取りに追われるのはどう考えてもつまらない。傾斜地のため足場が悪く、危険を冒して刈り取る気にもなれず、不本意ながら除草剤を使う事になる。何とかして草を生えなくする工夫は無いものかと思案した結果、木を植える、観賞価値のある植物で表面を覆う、の2点が最上であるという結論に達した。
 雨や地震から斜面を守るには、針葉樹ではなく直根が発達し、深く根を張る広葉樹の方が良いらしい。果樹は良いとして、ブナやコナラの適当な苗木がなかなか見つからない。それらの木が種子(どんぐり)から簡単に発芽し、素人でも簡単に増やせる事を最近知った。そのような理由と観賞価値が低いため、苗木があまり流通していないのだろうか。何故もっと早く気づかなかったかと悔やまれる。25年前に植栽していれば、いくらかは森らしくなっていたであろう。
 東斜面の奥に柿木が2本ある。苗木を植えて20年位だろう。それなりに立派な木に成長した。その手前には河川改修前に私が拾って来たイロハモミジがあり、幹の直径は15cmくらいになった。植木屋さんが入ると上品な庭木に切り詰めてしまい、樹齢の割りに小さい。去年から自然樹形を目指して放置したところ、急激に大きくなってきた。
 手前に樅の木が2本ある。これを植えた経緯が傑作で、10年以上前、ホームセンターにあったクリスマスツリー用の苗木を子供にねだられたので買ってやった。一本500円くらいだったと思う。もう少し大きくして立派になったところで切り倒すつもりだったが、2年ほどすると子供たちもクリスマスツリーに興味を持たなくなってしまい、切り倒す機会を失して今や簡単に切り倒せない木になっている。一番よい場所に植えたのが悔やまれる。
 木が大きくなるのを待っていられないので、それまでの繋ぎにクローバーの種を撒いた。除草剤で元の雑草を枯らし、雨の降りそうな日に種を適当に撒き散らすだけの作業なので非常に簡単。クローバーに覆われた丘も、ブナの森に負けず劣らず魅力的だ。しかし残念な事に放置しておくと次々に生えてくる従来の雑草に負けてしまう。人間がサポートしなければ群生させるのは難しいようだ。
 この荒れ果てた土地が新芽を吹き、紅葉する森になったらどんなに楽しいだろうか。私が生きているうちにそれらしくなるだろうか。老後のライフワークを確保したような気がして、何だかうれしくなる。

 高村光太郎、宮沢賢治の記念館 (2005.8.13)
 花巻には何百回と行った(2年間通っていたのだから決して誇張ではない)が、高村光太郎が戦時中疎開し、7年ほど暮らした高村山荘は少々遠い所にあり、見学する機会が無かった。8月7日、通り道だったため立ち寄ってみた。
 光太郎が住んだ杉皮葺き屋根の粗末な棲家は、当時そのままに保存されている。野口英世生家同様往時の建物が、鞘堂(中尊寺金色堂ではこう呼ぶ。内部の建物を保護する役目は同じ)の中で保存されている。本人がそこに暮らしたと言う事実は年月が経っても見る者に感動を与える。
 周囲が公園風に整備されても、光太郎が思索し通った道を歩けるのは良い。終戦後の数年間この地に隠遁していた光太郎の苦悩と、同調できるような気になる。一人で時間をかけて散策してみたい。少し離れたところに記念館があり、縁の品々が展示されている。
 花巻の文学者、宮沢賢治の記念館も花巻にある。比較するのは間違いかも知れないが、明らかに高村山荘、高村記念館の方が良い。賢治記念館は賢治とまったく関係ない場所にあり、それが町から遠く離れた新幹線の駅近くにあるので、何を目的に建てられたのか勘ぐってしまう。
 そこには賢治のチェロ、自筆原稿がある、賢治が設計した花壇が作られている、銀河鉄道をイメージした道がある、山猫軒がある。賢治が作曲した音楽も聴ける。心血を注いで建設した人、企画運営に携わっている人には誠に申し訳なく思うのだが、素直な感想として来なければ良かったと思った。自分で描き、暖めていた賢治の世界が崩壊してしまった。
 堀辰雄が、自分の理想の家を立原道造に語ったところ、建築家でもあった立原はそれを図面にしてしまい、堀はひどく落胆したと言う話を何かで読んだ記憶がある。それと同じだと思った。
 芸術作品は、鑑賞する人がそれぞれに感じれば良い。曲が演奏者によって表情を変えるように、文学も読者によってイメージが違って良いと思う。文学作品の世界を、近代的施設で3次元で具現されると、せっかく自分で作った世界が流失してしまう。前にも書いたが、花巻で賢治の世界に触れたければイギリス海岸へ行った方が良い。

 小学生の頃、私は音楽鑑賞と文学作品の感想文を書く事が大嫌いだった。何かを感じなさいと言われて聞いたり読む事は、作品を楽しむ余裕を奪い、自分の心の中に写った事を人前で話す事にも、ものすごい抵抗を感じた。抽象的な事を言葉で表現する訓練にはなったのだろうけれど。
 作家、北杜夫氏の文章は試験問題に良く引用されるそうだ。本人がその問題をやってみたところ、半分も正解しなかったと言うため息が出るような笑い話がある。