In memory of Yutaka Matsuzaki         Dec. 30, 2006

- 50年間の友情に感謝を込め、このページを亡き友、松崎 温 君に捧ぐ -


 松崎君が他界して早一年が過ぎた。今もそれが信じられず、突然「松崎だけど、これから行って良い?」なんて電話がかかってきそうな気がする。50年間の長きに渡り交友を保ち続け、どこかで私の人生を支えてくれたた友人を失ってしまった。どんな苦労にも音を上げず、軽妙なジョークで誰でも惹きつけてしまい人望が厚かった彼と、最後まで親友でいられた事をしあわせだったと思う。
 こんな私を最後まで信頼してくれた彼のために、彼が生きた証を残すことが私にできるせめてもの供養なのかも知れない。決して出しゃばらず、人前に立つことを嫌った彼の事だから、「余計なことをするなよ」ときっと言うだろう。でも故人の思い出を語るのが一番の供養だといわれるし、私もこの考え方が好きだ。だから、彼が生きた証を形にして残しておきたい。
 「ゴメン、ゴメン びっくりした?」と言って出てきそうなお茶目な彼。明るく楽しいことが大好きだった彼のために、涙は仕舞っておきましょう。

 このサイトは、彼の妻、美穂子さんと私の共通の想いから、公開することにいたしました。
以上の写真 2005年11月12日中学同級会に於いて   中学の担任高坂先生撮影 
 幼稚園の時、お互いの家は500m程度の距離にあった。遊びに来て玄関から入らず、縁側から上がってきた記憶は、私の最も古い記憶の一つである。
 小学校で6年間担任だった先生が「あいつほど我慢強い男を見たことが無い」と成人した後にポツリと言っていた。成績も良く人望もあったから、小学校の児童会長など重要な役をいつも担っていたにもかかわらず、愚痴も泣き言も聞いた事が無かった。
 一度だけ泣いた事がある。小学校の帰り道、裏通りを歩いていたとき、近くの別の小学生に絡まれた。私は意味の無い作り笑いと適当なお愛想てそいつらの機嫌をとったのに、温君は彼らの理不尽さに対し反駁し、溝に落とされ靴を濡らした。彼が泣いたのを見たのは、後にも先にもこのとき一度だけだった。
 悪戯はよくした。玄関にチャイムや呼鈴のボタンが付いている家はわずかで、ピンポンダッシュなんて言葉も無い時代、私が押すと彼も付き合って一緒に逃げてくれた。いつだか知らないが、カステラを預け留守番させたところ、二人で一箱ほとんど食べてしまったと死んだ母が晩年までよく言っていた。
 昔は大人向け映画の看板が街のあちこちに立て掛けてあった。小学生の二人は人通りが絶えるのを見計らい、近くまで行ってその看板を眺め、顔を見合わせにやっと笑った。大人になってからも二人の興味は変わらなかったはずなのに、その手の話はやがてタブーとなった。
 彼は女性に親切で優しかった。時々皮肉が交じったけれど気を逸らせることも無く、話題も豊富。しかし、真剣に女性の話をしたのは奥さんになった美穂子さんの事だけだったと記憶している。女性に対し不器用だったのかも知れない。
 あと半年働いたら早期退職し、昔のように互いに行き来し、温泉にでも行くのを楽しみにしていたと美穂子さんから聞いた。そんな慎ましい願いも叶わず、一人で逝ってしまった。今考えると、彼は自分の寿命をうすうす感じていたのではないかと思う。
 彼は何を思って生きたのだろう。何を残して逝ってしまったのだろうか。そんな事を考え続けている。

彼が遺してくれたもの 作文 「岳の思い出」 小学校卒業記念文集から
1957年幼稚園クリスマス会
ヨゼフ役の温ちゃん、右上の鶏 小生
1959 小2 親子遠足 中央御母上、右小生 1961 小4 遠足
1961 小4 遠足 平出遺跡で展示を覗き込む 1962小5 サイクリングで やんちゃな時代 1962 小5 美ヶ原登山にて
1963 小5 信越放送テレビ出演 1963 小6 修学旅行 愛知県知多半島 1963 小6 修学旅行 愛知県野間海岸
松本の子供たちにとって
海は夢のような場所だった
1964 小学校卒業時 謝恩会にて 1965 中2 4月 転校する私を駅まで送りに来てくれた 1966 中3 8月 松本へ遊びに行った時、
駅まで見送りに
1981.3 国道17号沿いのドライブインにて 1981.3 安曇野 1982.5 結婚直前 荒川河川敷 
温君の位牌、お骨にお参りした。

 お墓が決まらないので、伊勢原の立徳寺さんに仮安置していただいている。
 美穂子さんに案内していただき、ご住職にお経を上げていただいた。
 お骨と位牌を目の当たりにすれば少しは実感が沸くかと思っていたのだが、生身の彼と無機物の彼のギャップは埋められなかった。
 それでも、美穂子さんが少しでも安らいだようで安堵した。温君もそれを何より望んでいると思う。
1985 人の婚約者を見て白けている図 2007.11.15 立徳寺


松崎温君略歴 
松本市生まれ、聖テレジア幼稚園、信州大学附属松本小学校(ここまで8年間私と同じクラス)、同中学校、松本深志高校卒
東北大学金属工学科修士(最後の一年間、私の実家も仙台だった)
昭和電工秩父工場(独身時代の5年間、車で1時間の所に住み頻繁に行き来した)
2005年11月13日 急性疾患により故郷松本で死去。享年54歳。
2007.7追記
訃報 
 6年間小学校でともに過ごし、中学は松崎君と3年間同級だった牛越今朝文君が5月に亡くなったと知らせがあった。親しかった友人がご遺族から詳細を聞いてくれた。1月には元気だったが、その後胆管癌が発見され、手術したときには肝臓などにも転移していて、手遅れだったとのこと。
 小学校6年間同じクラスで同じ先生だったことは、普通の小学校生活を送った人にはわからない不思議な結びつきがあり、彼と特に親しかったわけではないが、忘れられぬことも一つや二つではない。寂しい。
ご冥福を祈ります。
2011.2追記
松崎一先生の思い出

2月16日、温君の恩父上、元信州大学教養部長、元松商短大学長 松崎一先生が亡くなられた。幼稚園以来親戚の子供のように可愛がっていただき、温君亡き後も電話をいただいたりしていた。心からご冥福をお祈りしたい。
 松崎家へ遊びに行くと、一先生がいらっしゃることが多かった。サラリーマンの父を持った私は「大学教授は暇なんだな」と子供心に思ったものだが、どこに居ても研究はできるし、家族を大切にされていたのだと思う。
 子供の面倒を見るのは、我が子であろうと無かろうとお好きだった。スキーに連れて行っていただいたこともあるし、近所の同級生を束ね、サイクリングに連れて行っていただいたこともあった。みんなが「先生、先生」と呼べば 「君たち、その先生と言うの止めてくれないかなぁ。君たちの先生じゃないんだぜ」とおっしゃり、誰が言ったか「おっちゃん」 と言う事になってしまった。そんな気さくな方だった。
 幼稚園、小学校の頃は学校等の行事に参加されることも多く、5年のときだったか私が施設のガラスを割ってしまった。青くなる私に「気にしない、気にしない」と言って処理してくださった。普通は怒られるのにそのときの優しい言葉は今も鮮明に覚えている。
 成人してから何度か松本のお宅に泊めていただいた。夜は「さて今日は何する? マージャンでもするか?」とおっしゃり精一杯もてなしてくださった。結局夢中になってTVゲームをした。
 数多い思い出の中で、次のようなことは今でも忘れられない。
 多くの教え子に慕われ続けたのに、奥様や温君に先立たれ晩年は寂しかったと思う。それでも息子の友人に過ぎなかった私を晩年まで覚えていてくださったのはありがたい。黄泉の国で先立った人たちと再会しているだろうか。

また一つ時代が過ぎてしまったと痛感する。

参考文献、資料