忘れ得ぬ人、大切な人


  伊藤 宏 君 - 大学時代の共同研究者
 温泉めぐりで傑出した人物と評した伊藤氏は、このサイトでは俄に有名人になりつつある。「伊藤さんっておもしろい人ですね」「伊藤さんってどういう方なのですか」と聞かれることが多い。私の拙い文章でも、彼のキャラクターは多くの人を引き込んでしまう。
 現在は某巨大企業の代理店で、営業トップまで上り詰めている。今では押しも押されもしない重鎮だから、昔の事を多少こき下ろしても、それは幅広く豊かな人間性の一つと見なしていただけるだろう。(と怒られないよう予防線を張っておく)
 同じ二浪と言う事もあって1年の頃より親しくしていたが、彼と昵懇になったのは卒業研究を通してだと思う。2年、3年の彼の記憶はほとんど無い。先日聞いた話では、何かの授業を二人でサボり深大寺まで蕎麦を食べに行ったらしい。誰かが告げ口をして先生の知るところとなり、呼び出しを食らった事があったようだ。そういえば、そんな事があったかもしれない。

 私は卒業研究のテーマを決める日に出遅れてしまい、江守一郎先生の研究室で残っているのは、「沈殿槽における沈殿現象の模型実験」と言うあまり面白くもなさそうなテーマだった。どうしようか考えているとき、隣に伊藤君がいた。「一緒にやらんか」と声をかけたら、二つ返事で受けてくれた。
 提出期限前日、炬燵で私は必死に卒業論文を書いていた。その横で彼が熟睡していた。十数頁書き貯まると、「おい、起きろ」と揺り動かす。彼はむくっと起き上がり、書き上がった論文をそのまま写す。写し終わるとそのまま後ろに倒れ、寝息を立て始める。そんな事が朝まで繰り返され、百五十頁ほどの論文が書き上がると、彼が運転するスバル360で学校まで提出に行った。その時は不思議にも思わなかったが、睡眠と覚醒を一晩で何回も繰り返せるものなのだろうか。今になって思うと、本当に眠っていたのかすこぶる怪しい。
 私が何だか良くわからない理屈をこねくり回している間に、彼は情報収集に走り、物品を調達し、その他の勉強が嫌いな私のためにさまざまなサポートをしてくれた。楽しかった。付き合いが悪く、偏屈だった私が特に大喧嘩をする事もなく成し終えたのは、彼の人徳に負うところ大であろう。まったく別な事が得意だったのが幸で、我々はパートナーとしてお互いの欠けているところを補完し合えた。卒業研究を種にして金儲けをやれと言われたら(誰がそんな事を言うかって? 我らが江守先生なら十分言いそう)、間違いなくクラス最強のチームだったのではないかと思う。
 サービス精神旺盛で面倒を厭わない彼は、級友のみならず先生方にも覚えめでたいのだが、私の結婚前夜に研究室の面々が集まったとき、恩師江守先生がこんなことを言われた。
「ところで伊藤さん、あなたどこの研究室でしたか?」

 これは時効だろうから暴露するが、お互い卒業が大変だった。彼は○学の単位が未取得で最後の試験もかなり怪しく、○学の先生の家まで直訴に出向いた。
玄関先
「先生、何とか単位いただけないでしょうか」
「ダメだよ君、この成績では無理だよ。もう一年がんばりなさい」
(しょぼんとして)「そうですか。わかりました。ところで先生、ちょっとトイレ貸してもらえませんか?」
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「まあ、お茶でも飲んで行きなさい」
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「まあ、もう一度答案を見直してみるから。でも期待しちゃだめだよ」
別に切羽詰ってトイレを借りたわけではない。はじめからトイレを借りる予定だったのを私は知っている。
後年彼がこの話を面白おかしくこの私に語る。
「ところでその時、誰か車で待っていなかったか?」
「そういえばそうだな、えっ、おまえか」
「そうだよ!」 (ーー゛)
 まったくお茶とお菓子までご馳走になり、そのうえ単位まで貰ったのに、駐車違反にならないよう車を見張っていて単位を落とした私は良い面の皮。まったく上手い事やったもんだと思うが、考えてみると話術と行動で相手を魅了し自分の思いを達するなんて事は、誰にでも出来る芸当ではない。ご立派。

 誰かと旅行していると次第に鬱陶しくなり、一人になりたくなる事が多い。ところが彼との二人旅ではあまりそれを感じなかった。何故だろう。お互いに相手の単独行動を邪魔しないこともあったが、彼の気配りが柄に似合わず、ものすごく繊細だと言うことに思い至った。言いたい事があって、その1/4くらいポツリと言う。すると彼は即座に100%理解して対処してくれる。これでは喧嘩にならない。成績は悪かったと自嘲気味に話す彼だが、対人関係における回転の速さには、私は遠く及ばない。 
 学生時代、大食の伊藤君が我が家に来ると大変だった。三人家族の所へ二人分食す彼が来るのである。年老いて認知症になりかかっている母が、今でも笑いながら言う。「伊藤さんが来るとお米が無くなって困った」と。この遠慮の無い懐っこさも魅力の一つだ。大食で美食、仕事上の付き合いもあるのだろうが、健康にだけは気をつけてもらいたいものだ。
伊藤宏写真集  伊藤宏君との温泉めぐり  成蹊大学機械工学科の個人的ページ